昭和48年10月29日 朝の御理解



 御理解 第28節
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、矢張り水は濁っておる様な物で、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛する様元気な心で信心せよ」

 神様が氏子に願うておられる、信心しておかげを受けてくれよというおかげ。言わば本当のおかげ。信心しておかげを受けてくれとこう仰っておられる。それは本当のおかげ。信心によって頂けるおかげ。ただお願をして頂くおかげとは違う訳であります。信心しておかげを受けてくれよという、おかげを頂かせて貰う。病人や代々難儀の続く人がと言う、やはり私は、信心を頂くという事は、そういう難儀な巡りとでも申しますか。そういう巡りの深い人が、まず御神縁を蒙るように思います。
 教会の傍におっても、神様の有難さも分からない。それはやっぱり御親縁を頂かなくっても、何とはなしにまだおかげを受けておる。そらもう本当にあの、遠い所から例えばほんなら、合楽教会なら合楽教会と言うて、お参りをして来る。それだけ矢張り巡りの程度が深いんだと云う風に思うのです。ですから信心は、途中で止めれば、病気災難の根は切れぬとこう仰るのに、信心を頂く事によって。
 信心の有難さ、信心の楽しさと云った様な物が、あのう身に付いて来るというおかげを頂かなければ、私は辛抱は出来ないじゃないかとこう思うです。ただそのー苦し紛れの一生懸命の信心だけではなくて、苦しいけれども、やはり有難い。信心が分かって行っておる。けれども、信心の徳というか、それが身に付いて行く事を、自分で感じる。成程この信心を頂いて行けば、おかげは受けられるぞ、井戸は清水になるまでと云う様な、所謂懇々として綺麗な水が湧いて来る様なおかげにも触れられるぞ。
 云う様な楽しみというか希望と言った様な物が出来て来る。そこから私は本当の所謂、天地の親神様が仰せられる、信心しておかげを受けてくれよと云うおかげとは、そう云う所から湧いて来る様なおかげの事だと思うんです。ですから矢張り並大抵な事ではないですけれども。その並大抵でないその修行が有難いと、それが楽しいと。だから云う事にならなければ、中々信心は続けられない。
 井戸は清水になるまでのおかげを頂くというのですから。例えば是私大坪一家の事を考えましても、本当にまぁいうならこれ程信心するのに、どうしてこう云う事がと思う様な事が続きましたけれども。おかげでその頃には、信心の楽しさとか信心の喜びと。まぁ是が巡りのお取り払いであろうかと思われる様にです。やれ痛や今みかげと。成程苦しゅう御座いますけれども有難いと言った様な境地が開けておったと思うのです。なら今はもう完璧に、お取り払いを頂いておると云う事ではないでしょうけれども。
 まぁ私は、懇々と願わんでも、清水が湧く様におかげを受けておるのが、合楽の大坪の家の事だとこう思うのです。ですから途中で止めておれば、こう云う事は出来ん。昨日竹葉会でしたから、おかげを頂いておりましたら、秋永先生の奥さんも見えておる。お届けがあったんですけれども。先日から東京から帰られて、その翌日ですかね、呉服類の、良いものばっかり出た、一梱包を盗難にあった。盗られて。
 はぁ随分色々入っとったじゃろと言うて申しましたら、二百万円がつばっかり入とったげなそれを、ほんなあっと云う間に盗られた、自分方の家で。けれども先日から、丁度そのそう云う事があります前に、安東さんからお夢を頂いて、そのお夢を聞かせて頂いておった。まぁ大変な難儀な問題、難儀な事になって来る様な、取り返しの付かない様な事が、起きると云う様なお知らせを頂いておりましたから。もうそれのお取り払いだろうと思うて、お礼を申させて頂いておりますと云う事であった。
 口でこそ二百万ですけれどね。けれども成程例えば、ほんなら是が秋永先生の命に係る様な、なら巡りがそこに出て来ようとしておる所へです。信心を深めた又は、信心を高めた、もう真っ直ぐこう行っておりゃ、必ずそう云う難儀にぶつかる所をです。信心を高めた又は信心を深めた。先日からお話ししましたですね、あのー同じ、例えば東京に参りますと、道が普通のこう道があると、上にもあの高速道路が出来ておる。下には地下道が出来ておると言った様に、その高速道路の事を、信心を高めるとこう。
 今度の東京行きなんかの場合なんかは、大変忙しい中に、あちらにおかげを頂くのですから、矢張り一段と信心を高めるか深めるかした事になったんじゃないでしょうかね。そのおかげで、ほんなら二百万円ぐらいの、言わば物を無くするくらいな事で、おかげを頂いたと云う事も言える訳です。それを昨日はあちらの奥さん、言っておる訳ですね。ですからほんなごて、もう親先生任せになってから、主人は東京までも何日もお供して行って、帰って来て間もなくこう云う事が起こるとは。
 どう云う事じゃろうかと言うて止めれば、その水は、何時までも濁っておると云う事になるのです。だから此処ん所がね、途中で止めれば病気災難の根は切れぬと、こう言うておられる事は、信心を続けておるとですね。もう止めなければ、普通で人間心で言うたら、止めた方が良い様な事に直面する事もあると云う事だと思うですね。途中で止めなければおられない様な事に直面する。けれどもその頃には、信心のなんたるかも段々分からせて貰うて、所謂巡りの実態と云う事も分からせて貰い。
 自分の家は巡りの深い、巡りの自覚も出来て来て、そして神様はその辺の所を、その事前にです、そう云うお知らせを下さってあって、此のままの信心では、大変な事が起こるぞ、信心を一段と進めて行け、さぁ進めたけれども、矢張り起こっておる。と云う事は、言わばほんなら二百万も盗られたと云う事は、是は取り返しの付かんと云う事ではない。是は秋永先生の所では、まぁ解り易く言うと、貯まったらとられ、貯まったらとられと言った様な物が、随分続きましたですね。
 何時も盗難とか事故に合われるとか。だから是は、愈々だからこれ程信心するのにと言ったら、そこで止めなければおられない様な事ですけれども。其処ん所をです、大難を小難でお祭り替えを頂いた。やれ痛や今巡り、本当にそれは今の例えば梅屋の場合、二百万もの物を盗られると云う事は、大打撃ですけれどもそれには、変えられない程しの物を、その代わりに頂いておると云う事を、有難いとかすかに分からせて貰うて、お礼と云う事になっておるのです昨日。
 だからそう云う時じゃないでしょうかね。私共が信心を止めてしまう様な事に直面する。けれども其処が日頃の信心のおかげを頂いております事。本当に今度の、例えばどうかそう云う事は、はっきりは申し上げられん事ですけれども。今度の例えば東京行きの事に、自分と云う物を空しゅうして、信心を深めさせて頂いたおかげで、二百万円ぐらいな事で、言わば済んだ。二百万円がたの、言うなら巡りのお取り払いを頂いたと言うて、お礼を申し上げる。けれども是は私の過去から言うてもです。
 矢張りそう云う都度都度に、私が例えば難儀の都度都度にです、これほど信心するのにというように、不幸が次々と続く。それこそ、七墓築く様な事が続いた。そん時に私が信心を緩めたり、信心を止めておったら、今日の合楽は開けていない。そう云う風に思わせて頂く時にです。愈々有難い信心の喜びと云うのは、私はあのそういう信心から生まれて来る。信心させて貰いよれば、結構毛だらけの様な、良か事ばっかりが続くと云う事では無くて。矢張り巡りのお取り払い。
 病気災難は根の切れる迄のおかげを頂いて、懇々と願わんでも湧いて出る様なおかげを頂けれる。またそう言うおかげを、神様は、信心しておかげを受けてくれよと願うておられるおかげに触れさせて頂く為に、矢張り信心辛抱が要ると云う事が言えます。いかに信心辛抱梅の花と言うて、それこそ鶯が来て止まる様なおかげを頂いたかと思うと、もうそれも束の間、その梅の花も矢張り散る時が必ずあるです。其処ん所を大事にしなければならない。そこから私は梅の実の実りというのがある。
 その徳を受けた時に、初めてです何時まで置いても悪くならない。何時までも懇々と湧いて出る様なおかげの頂けれると言うのですから。是は矢張り巡りの深い物が、先ず御神縁を頂くんだなと云う事を感じます。ですからその巡りの深いだから、廻りが大きければ大きい程、おかげも大きいと云う意味も分かる様ですね。巡りが大きければ大きい程、だから力も余計頂くんだと云う意味なんです。巡りが大きいからおかげ頂くとじゃない、巡りが大きいから、その難儀にも合う訳。
 その難儀を言わば、お取り払いとして頂けれる信心。最後に根の切れるまで、一心にまめで繁盛する様元気な心で信心せよ。其処ん所に、元気な心が求められる訳であります。元気な心の私は内容というのがです。痛い痛いけれども有難い、と云う事じゃないかと思います。だから元気が出るのです。今朝愈々明日が、親教会の初代の四十年の式年祭がある。それこそ大々的に行われる訳であります。
 普通大祭でもない様な。例えば典楽の方を、合楽が受け持っておかげを頂くと云う様な、一事から言うても、大きな御霊様の働きがあっておるなと云う事を感じます。このお祭りが始まる一年前に、委員会が出来て、そん時の席上で、今度の式年祭には、合楽から百名ぐらいはお参りして頂くだろうと言われました。さぁとまぁ申しましたけれども、そう云う風に当てにして御座います。
 けれども何か一向合楽の方は燃えていない様な感じがするんですけれども。私が燃えてないからだろと思うのですけれども。愈々明日に迫りました。どうぞ一つ万事にお繰り合わせを頂いて、明日の十一時のお祭りですから。どうぞそれに間に合う様に、お繰り合わせを頂いて。お参りが出来ん方は玉串料だけでも一つ、託けてお供えさせて頂くと言う様におかげを、せめて玉串料の数だけぐらい百位は出来なければ、相すまん事だと思うんです。もうどうぞさぁどうしようかと云う人達なら。
 是非ともお参りをして頂いて、知って無い方はどうでも誘い合わせてから、お参りして頂きたいと思います。その事を今朝から、お願をさせて頂いとりましたら。先日東京で歌舞伎座の招待を受けました。お芝居を見せて頂きました。今七代目尾上菊五郎の襲名披露が、二月間に渡ってあっております。十月十一月。まぁなんとその、十一月十二月の切符が、全部もう売り切れなんです。と云う様にそら大変な人気の中にですね。
 まだ若い今度七代目菊五郎の襲名披露を見ろうと云う人達で、もう毎日それでも七十名だけは、立ち見とか、または別に席をこしらえての、仮の席ですけれども、売ってるのにもう、五時間ぐらい待って、その切符でも五時間ぐらい並んでおらなければ買えないと言った様な事でした。そう云うのを私共は、おかげで五人一行五人でしたから、五人ながら大変良い席で見せて頂きましたけれども。
 折角見るなら夜の部の襲名披露の口上のある時でなからなければ、折角の値打ちがないと言うので、わざわざ夜の席を取って貰いまして、その口上を見せて貰いました。私は今日その、明日の霊祭の事をお願いさせて貰いましたら、そん時に頂きました、感動ですかね。何かそん時に感じた感動が、御祈念中に湧いて来るんです。そしてご心眼にそん時の、あのう口上の、所謂音羽屋一門ですたいね。所謂菊五郎一門の、親戚の役者達がずうっと、舞台一杯に並んで、一人一人口上を述べる所を頂きました。
 私は思うのにいよいよ、こと家に何かと云う時に、普通はそうではなくても、身近な者が、みんな相集まって、その事に協力すると云う事ほど心強い肩強い、そしてまた見良い物はないと思うですね。例えば善導寺の教会、出社が北野、星野とまぁ合楽がある訳で御座いますけれども。その一門の者がです。そう云う例えば親の、仏教で言うなら法事、お道で言う式年祭にです。その一門の者が皆んな集まって、お祭りをさせて頂くと云う事が出来たらですね。
 例えばあの、先日見せて頂いた菊五郎の襲名披露の時に、観客の席の方に何とはなしにです、起こって来る一つの感動と云う物がね、湧き上がって来る様な、有難いおかげになる。親先生に喜んで頂きたい。初代に喜んで頂きたい。これは、何と言うても、私はその、ただ、お祭りを盛大にするとか、お参りが沢山あるとかと云う事だけではなくて。先生おかげでです、私は、こう云うおかげを頂いておりますと。こう云うおかげを、現在頂いておりますと言う事が、親先生の一番喜んで下さる事だと思うんです。
 それにはほんなら、例えて言うならば、本当に喜んで頂くと言う事は、今沢山はおらんと思うんです。初代の親先生が、それこそ血のにじむ様な修行をして下さって、三井教会が開かれた。そう云う修行をして下さったおかげでほんなら、今日私が今日の御理解で言うならば、それは先生途中で止めたいごたる時も御座いました。けれども段々信心の有難さが分かって、巡りのお取り払いも頂いて。そしてもうそれこそ。
 願わんでも頼まんでも、懇々と湧いて出る様な、おかげを頂いておりますと言う、私はお礼を申し上げる事が、初代荒巻道郎先生の、一番お喜び頂ける事だと思うのです。そしてそれだけでは御座いません。その信心に伴うてこれ程しの、また、おかげを頂いて行く人達が、出来て行きよりますと言う事を、聞いて頂く事が、親先生に対するお礼でもあると思うのです。ですから、そういう意味においてでもです。
 皆さんどうぞお参りを頂きまして、皆さんが現在おかげを受けて行っておられる様子を、親先生の御霊様にも、報告が出来る様なおかげを頂いて貰いたいと思いますから、どうでも一つ、まぁ一軒にせめて一人は、おかげ頂いて。皆さんが出来んなら、言わば奥さんでも、又は子供でも又は年寄りでも良いですから、一つ、本当に賑やかな。それこそ音羽屋の襲名披露じゃないですけれども、一門の者が相寄り集まって、お祭りを拝まして頂きたいと、私は願っております。
   どうぞよろしくお願いいたします。